礼拝説教より とりなしの祈り

礼拝説教より(要約)  執り成しの祈りについて

2016年1月7日

 

「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」                                   ヨハネの手紙第一 5:16a

 

イエスさまをあかしする目的の第一は、罪人が救われることです。クリスチャンは隣人に福音を伝えます。その隣人の心に御霊が語ってくださることを祈る役目もあります。使徒ヨハネは、「クリスチャンを御子を持つ者」と呼んでいますが、それは御霊の内住を指しています。クリスチャンのできる“伝道”は、直接的にはイエスさまが歴史的事実としてバプテスマから十字架、復活に至る歩みをされたことをあかしすることですが、最大のあかしをされるのは、御霊なのです。

私たちは、「永遠のいのち」という言葉は、実感し難いものだと思います。ヨハネは、黙示録をも書いた人ですから、この世のいのちと神が与える永遠のいのちが、いかに大きな違いがあるかを実感していました。私たちは神さまが言葉を発し、約束をしてくださったことに対して、どこまで真剣にそれを受け取っているでしょうか。今の時代は、昔以上に永遠のいのちがわからな人が多くなってきたのではないでしょうか。それは旧ソ連の人工衛星で人類最初に地球を眺めたガガーリンという宇宙飛行士が、神の玉座がどこにもないという放言をした頃から、次第に多くの人々が目で見えないものの価値を、ひどく低く見るようになったためと思います。

「永遠のいのち」を、絵に描いた餅のように実体のないものと思う人がいるなら、その人は永遠の滅びに至ることになります。ヘブル9:27には、「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と書かれています。神の裁きは正しく、有罪か、無罪かによって厳粛な結末を人は迎えなくてはなりません。救われている人は死後に永遠のいのちを受けますが、他の人は火の池(第二の死)に居続けなくてはなりません。二者択一であることを、すべての人に明示する必要があります。