カテゴリー別アーカイブ: 礼拝説教

二代目クリスチャンの苦労

『二代目クリスチャンの苦労』

 

「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」

箴言 7:1,2

 

先週木曜日は、長男が新しい住居に引越しする手伝いに行きました。まだ、挙式までは1ヶ月以上間があるのですが、旗日はこの日だけでしたから。

私たち家族は、21年前、名古屋から山形県長井市に引っ越しました。小学校4年生で転校してきた彼は、帰宅すると私とよくキャッチボールをしました。息子はスポ少にも入らず、残った時間もイモリや昆虫採集に山にでかけました。終日仕事の母ではなく、4時には帰っている父が子どもと遊ぶ係りでした。

彼が中学に入る時、野球部に入るというので驚きました。「日曜日は礼拝の日だ。試合に出なくても大丈夫か?」と問い、「練習だけでもいい」と言い、彼は3年間、たまの代打で出してもらう以外は出番のない野球部員で過ごしました。高校入学時には、「僕はもう野球部に入らない」という宣言をしました。ところが、「1年生の部員は7,8名らしい」とニコニコで帰宅、9名集まらないならたまには出番があると思ったのでしょう、前言を取り消し野球部に入ったのです。高校2年生が終わるまで日曜日礼拝厳守でしたが、冬季室内練習も午後集合だったため練習参加をし、練習試合などでの出番は増えました。6年目の春、イースターの日は当然試合を休ませたところ、次から打順はクリーンアップから8番に降格しました。春の公式戦で、5打数5安打して直ぐに5番に打順は上げました。私は5年間、彼に一歩も譲歩せずに聖日厳守を通させましたが、夕拝と祈祷会を守ることを条件に、3年生の数ヶ月は「部活のある時は、朝礼拝を休んでいいよ」ということにしました。

冒頭聖句の「私」というのは、父親のことではありません。擬人化された神の知恵です。・・・私のような融通のきかない父親のもとで彼はよく躓かなかった、今考えるとひどいことをしたとも思うのですが、結果だけみると、彼は満足できる高校生活を過ごし、神様を礼拝する生活も身につけました。ただ主のあわれみのみでした。

礼拝説教より とりなしの祈り

礼拝説教より(要約)  執り成しの祈りについて

2016年1月7日

 

「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」                                   ヨハネの手紙第一 5:16a

 

イエスさまをあかしする目的の第一は、罪人が救われることです。クリスチャンは隣人に福音を伝えます。その隣人の心に御霊が語ってくださることを祈る役目もあります。使徒ヨハネは、「クリスチャンを御子を持つ者」と呼んでいますが、それは御霊の内住を指しています。クリスチャンのできる“伝道”は、直接的にはイエスさまが歴史的事実としてバプテスマから十字架、復活に至る歩みをされたことをあかしすることですが、最大のあかしをされるのは、御霊なのです。

私たちは、「永遠のいのち」という言葉は、実感し難いものだと思います。ヨハネは、黙示録をも書いた人ですから、この世のいのちと神が与える永遠のいのちが、いかに大きな違いがあるかを実感していました。私たちは神さまが言葉を発し、約束をしてくださったことに対して、どこまで真剣にそれを受け取っているでしょうか。今の時代は、昔以上に永遠のいのちがわからな人が多くなってきたのではないでしょうか。それは旧ソ連の人工衛星で人類最初に地球を眺めたガガーリンという宇宙飛行士が、神の玉座がどこにもないという放言をした頃から、次第に多くの人々が目で見えないものの価値を、ひどく低く見るようになったためと思います。

「永遠のいのち」を、絵に描いた餅のように実体のないものと思う人がいるなら、その人は永遠の滅びに至ることになります。ヘブル9:27には、「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と書かれています。神の裁きは正しく、有罪か、無罪かによって厳粛な結末を人は迎えなくてはなりません。救われている人は死後に永遠のいのちを受けますが、他の人は火の池(第二の死)に居続けなくてはなりません。二者択一であることを、すべての人に明示する必要があります。